昭和五十五年十一月二十六日 朝の御理解


御理解第九十七節
「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。」


 神に一心が届くような信心とは、いうなら難しい、但しその一心が出せる事の為の精進が、銘々のところでなされていかなきゃいけない。これはまあ御祈念の姿をまあ云っておられるのでしょうけれども、一生懸命、一心不乱に神様を拝む、これは素晴らしいですね。 例えばここで云われる大祓心行なんかは五巻十巻と、しかもあれを頼まねばならん、これを願わなければならんというのではない。合楽で云われる大祓心行というのは神様がままになられる事の為の修行だと、私たちがおかげを頂かんからの修行じゃない。神様がままになられる大祓心行というようになって何年になりましょうか。それを実験しておられる方達は必ず実証が生まれてきておるだろうと思うんです。これが十年続いたら、例えば大祓十巻、毎日どんな事があっても上げるという事が十年続いたらその人の一つの願いというものは必ず成就すると、まあ大祓心行の事が合楽で云われるようになる時、そういう御理解を頂いとりました。
 勿論そこには無、私です。いわゆる私が無い、ただただ神様がままになられる、神様がおかげ頂かれる、神様が元気が出なさる、神様が生き生きしてみえるその為に大祓心行。これはあれこれと、それこそ何事でも、牛馬に至るまでとおっしゃるからお願いをさせて頂く、神様へのまあ御礼のようなものだと、大祓心行は。ところがその大祓い心行を本気でやっておりますと、この一心不乱という事が分かってまいりますし、成程もうそれこそ御神前に根が生えたように五巻と思うとったけれども、十巻と思うとったけれども、思わず十巻の大祓が二十巻も上がるといったような、御神前から動きたくないといったような心の状態の時、根が生えたような思いがする時そういう時を私は教えておられるのじゃないだろうかと、こう思うですね。それこそ槍先で突かれても後ろを振り向く事は出けん。他に物音を聞くようでは神の一心は届かぬと仰るような一心は、ただ自分の我情我欲の為に拝んでおるという時ではなくて、神様の前に捧げた時、しかもそれが一心不乱にそれが続けられる時、もう確かに神様が外しなさらん。
 神様がもうとにかく御神前から動きたくないような時、私はそういう稽古がなされなきゃそういう、やっぱり信心の土台のようなものがね、出けなければ拝む事の喜びとか、楽しみとか、とにかく一心不乱、一心に拝んどります、一心の信心をしとりますとは云えないと思う。やはり信心が好きにならなきゃあいけません。だから神様が又好きになって下さる。
 もう昔、椛目の時代でしたけれども、高芝さんの頂かれた御理解の中に「高芝さん、先生に好かれとると思いなさんな、頼られてると思え」でしたかね。そういう御理解を頂いた事がございます。先ずはね、やはり好かれなきゃならん。それには先ず私共が御神前を離れる事が離れにくい位にならなきゃいけない。そこからいうならば神様がこの氏子に、ならと思し召す心が動いてくる。そういう心の動きというようなものは説明出来ないです。
 昨日は幹部研修会で最後に文男先生が発表しとりましたが、ここで云われる『心一つで総べてを創る』というのは、ただ磨きさえすりゃあ良い、改まりさえすりゃあ良い、自分の心が綺麗になればそういう心、そういう心を『心一つで総べてを創る』と云うのではない。人間生身を持っておる者の事ですから、こんなお粗末な私、こんなご無礼な私という事をいつも感じるだろう。そのお粗末な御無礼な者であっても、何か一つでもこの氏子がこの事だけは、この氏子でなければといったようなものが出けてくると、神様がそこに、神様が頼りなさる。神様に頼られる私共でも、まあ私位の者、私位何も出けん人間、それでもやはり昨日当たりの御理解頂いとるとね、いよいよ以て神様が私に頼ってござる、頼っとられる、頼られとる、そんな気が非常に強く大きく、この事だけじゃなくて、全世界に和賀心時代をと、神の願いを世界の津々浦々にも広げてくれよ。難儀な氏子が苦しんでおる。例えば合楽でいう十三日会何かというのは、もう本当に人間が幸せになるもう一番近い助かり方なのです。
 自分というものを窮屈な所におかないで、それこそ神様の御恩恵の中にいつも懐の中にあるんだという自覚ですから、縛られる事がない。だからそういう信心がすっきり出けてくる時に、神様のいうならば白羽の矢とでも申しましょうかね、神様の願いを自分で感じられる。それは勿論ピンからキリまでありましょう。例えばお炊事ならお炊事の、合楽教会のお炊事の時にはこの人が居らにゃあ出けんというような、又自分としても合楽の何かという時にゃ自分が御用頂かなきゃ、とこう頂き込んでいる人なんかは、お炊事ならお炊事という事だけで神様が頼られとるという、自分はいうならば頼られておる自覚もだんだん出けてくると思うです。
 あれをし、これをし、そしてほんなこつは出けんといったような信心じゃ出けん。御用頂くというてもちょいとあれをし、これをし、ちょいとエプロンかけちござるかと思うともうエプロンのけちからこっつぁん来てござるといった人がありますよ。うろうろする人が御用でも、何の為御用やら。私が居らにゃあといったようなものが、やはりこれは炊事とか御用とかいうだけじゃないですけれども、信心の上でです。これは私の独壇場といったようなものを私は頂かな。だから心一つですべてを創るようなおかげを頂くという事は、勿論清まる。今日の九十七節なんかというのは、九十という事は九に九を重ねるようなね、九に+(プラス)する。しかも七というというのじゃけん、ここにもういっちょ改まるとこの七という字をもう一つこう、あの改まる。七という字はもう一押しという意味の時に御理解を頂くわけですけれども、難儀の上にどうでもおかげ受けられない。受けなければならないそのおかげを受けられない時には、ああでもなかろか、こうでもなかろかと思うてほっと気がついた所に、いうならば改まった信心が出ける。こんなに易い事が今迄出来なかったとはと思うような時がございます。おかげが約束されます。そういう時にはと云うように今日の御理解は難しい御理解ですけれども、それには後を振り向く事は出けんと、物音がしたからというて、だからこれだけは自分じゃなからにゃ出けんといったような一つの思い込みのようなものをつくって、誰が何と云おうがどういう時であろうが、これだけは貫かせて貰おうと云ったような信心がいるんじゃないでしょうか。
 貫くものそこからね、これは言葉では言い表せませんけれどもいうならば頼られとる、神様に好かれとる、そういうようなものがこれに通うてくるんです。それがだんだん育って大きなものになってゆくという事なんです。もう信心に勿論これはまあいうならば神様を拝むと、まあ拝む事を信心だという風に私共は観念しとるし、又事実そうでもあります。やはり拝む事が好きにならにゃいけません。そしてその拝むその内容が、自分が頼む事の為に拝むのではなくて、神様が喜んで下さるような事の為に拝む。しかも繰り返し繰り返し、もう一心不乱に大祓でも奏上させて頂いておると、神様の前をはずれようごとなかごつなってくる。いうならもうすでに神様が外したくないといったような現れの時である。そこからいうなら神に一心が届かぬとおっしゃる、神に一心が届く事になるのです。
 合楽の場合はこの拝む事に対してあんまり申しませんからね。あのだからやっぱり拝む事が好きにならにゃいかん。あら今晩な御祈念を忘れとったというようなこつじゃでけん。しかもポンポンと拍手打ってからまあちょっとお礼するような事じゃでけん。せっかく家に麗々しゅうお神様をこうやってお祭りさせていただいたんだから、もうお神様の前にいったら座らにゃおれん、御祈念せずにゃおれない、あれば頼まんならんこれば頼まんならんからじゃない。もう本当に大祓心行でもさせて頂く、そういうような楽しみといったようなものがね、だんだん出けてくる。いうなら神様の前をはずれようごとないような心の状態が出けてまいりますと、いうならば神様がお前が好きだとか、お前に頼むぞというような事がなかってもです、そういう心が神様に特別に頼まれておるといったようなものが生まれてくる。そういう心一つでおかげを受けると、文男さんは云ってましたですね。
 磨いた心、または改まった心、美しい心、そういう心次第ではなくて神様と通う心。文男さんなんかはいうならば悪いうと惚れが強いという事になるかもしれません。合楽で一番好かれとるとは自分だという位な自負を持っておる。惚れといや惚れかもしれんけれど、そういう心がいつも神様からお願いすればおかげ頂けるといったようなものになっておるような意味の話をしております。
 私は改めて心一つで総べてを創るという事を、意味をです、九十七節というように苦しいときに又+(プラス)するような苦しみ、そういう時にゃまあやっぱり改まらにゃいけない。改まる事も大事、そして神様に向かう。しかも向かう心は一心でなければならん。人が何と云うても振り向くだんじゃないような貫く心にならなきゃいけないという、これは正常なと云うでしょうかね、そういう所から生まれてくる一心、それからこれだけは私じゃなければ出けないといったようなものを信心で身に付けさして貰ってそういう一心、いわゆる神様に頼られておるという一心そのものが心一つでと云われる、そういう心を云うのだというような事を云っております。
 高橋さんがもう当時の椛目ですかね、からずっと月次祭たんびんにあの菊正宗のあれは超特級酒ですから、大変高いもんですけれども、初めは一本づつお供えがありよった。ところが神様はもう一番良い酒から信者に御神酒をこう出す時には出せという事であったから、合楽の御神酒はあの超特級の菊正宗が御神酒になってるんです。それが一本では足らんようになり、二本で足らんようになり、今は三本月次祭たんびんにお供え、月次祭の時に出します御神酒です。それをね、何かね仕事の事で遅れられましてね、菊正宗がお供え出来ない事があった。その時分まだ一本のお供えの時でした。そしたら思いもかけない人が菊正宗の超特級をもってお供えに持って来て、もう椛目の神様は御神酒は菊正宗じゃなからにゃ出けん、しかも超特級じゃなからにゃ出けん。もし高橋定利がもしお供え出けない時には、誰かがお供えをする。勿論そういう事があったからでもなかろうけれども、以来どんな事があっても、いうなら何日か前に用意をされて、必ず月次祭たんびんに三本づつお供えなさる。それが何十年間続けられておる。これなんか素晴らしいと思うですね。
 信心にはね、そういう貫く、だからもう御神酒だけは高橋さんじゃなからにゃ出けんのという訳になるです。なら神様がちゃんと当てして待ってござる。そんな感じがするです。それで私はお徳を受けん筈はないと思うです。これはお供えだけの事ではありませんけれども、貫くという事、それが私は一心という事になるのじゃないかと思うですね。  どうぞ。